
1988年から活躍していた女性デュオwinkの相田翔子さんは今どうしているのでしょうか?今も芸能界でご活躍されているようですがご結婚はされているのでしょうか?winkは解散してしまったのでしょうか?今回は相田翔子さんについてまとめていきたいと思います。
相田翔子☆プロフィール
生年月日 1970年2月23日
出身地 東京都東村山市
血液型 B型
芸能界に入るまで
子供の頃はやんちゃでイタズラ好きだったという。3歳の時、肥溜に落ちて偶然通りかかった姉と友達に助けられたことは、トーク番組でよく話題にされる。
天然と言われている相田さんらしいエピソードですね。ほっこりします。
歌が好きでよく姉とピンクレディー等の歌を歌っていた。小学校低学年の頃、近所の友達を集めて草芝居を行うなど活発な少女だった。しかし、幼少期は知らない人の前で何かをすることができず、芸能界への憧れはまるでなかったという。
友達を集めての草芝居、見てみたかったです。
中学時代クラッシュギャルズに憧れ、入団テストを受けるためトレーニングをしていた。全日本プロレスのオーディションに数回応募するが、いつも不合格で断念する。

女子プロレスラーに憧れオーディションを受けていたとは驚きですね。おっとりした雰囲気の相田さんからは想像もつきません。
芸能界入りからwink結成まで
中学2年生(当時14歳)の時に、友人の応募でオーディションを受けたことがきっかけで、渋谷で芸能プロダクションのマネージャーにスカウトされたのち、芸能プロダクションに所属、歌手としてのレッスンを受け始める。母はかつて歌手に憧れていたためその夢を応援したが、父は芸能界への不安から反対した。そのため、当面はモデルとして活動し、歌手デビューは高校進学後にと事務所と話し合っていた。
モデルとしてもご活躍されていたんですね。今でも美しいので納得です。
高校時代は複数のアルバイトを経験。高校2年生(当時16歳)の時にソロ歌手デビューが予定されていたが、校則で禁止されていることを理由に辞退。堀越高等学校への転校も考えたが、多くの芸能人が並ぶ中でのプレッシャーに耐えられないと考え断念。すでにデビュー曲はレコーディングも済んでおり、現在の感覚で言えば訴訟沙汰にもなりかねない事態であったが、当時の事務所の社長の配慮もあって大事には至らなかった。
このお蔵入りになったデビュー曲、聞いてみたかったですね。残念です。
Winkとしての活躍

1987年にワニブックス社の雑誌「UP TO BOY」の第9代ミスアップ・グランプリを受賞。第7代グランプリを受賞したのが鈴木早智子さん。そのことが縁でデュオを組むことになったらしいです。
1988年高校卒業後に鈴木早智子とwinkを結成し、CX系ドラマ「熱っぽいの」主題歌「Sugar Baby Love」で歌手デビューする。デビュー当時は、頼りなさげな素人っぽい雰囲気を残し、ブレイク前の1988年夏のキャンペーンでは観客が入らず、楽屋で泣くこともあったという。
ブレイク到来
1988年11月、シングル3作目となるCX系ドラマ「追いかけたいの!」の主題歌「愛が止まらない~Turn It Into Love~」でブレイクを果たす。以降、1990年3月にリリースされた「Sexy Music」まで5曲連続オリコンチャート1位を獲得した。この人気は頂点に達し、トップアイドルの仲間入りを果たす。更にブレイク後の1989年には同年7月にリリースされたシングル5作目となる「淋しい熱帯魚」で第31回日本レコード大賞を受賞している。
5曲連続オリコン1位はすごいですね。淋しい熱帯魚の振り付けは当時流行りましたね。

当時は【笑わないアイドル】と言われていましたが所属事務所からは笑うように言われていたとか。
本人は「当時は突然の人気に戸惑い、ずっと緊張が解けなくて笑うことができなかった」と回想している。その一方で、オルゴール人形ように無表情で独特な振り付けは、winkのキャラクターとして定着していく。気負いのない率直な振舞は、時にやる気がないとバッシングを受けることもあった。
ずっと緊張が解けなかったとおしゃっていたそうですが突然ブレイクしてプレッシャーもあったのでしょうね。バッシングを受けてしまったというのはかわいそうですね。
wink時代のソロ活動

アルバムのソロ楽曲では、ノーランズ、ジョン・レノン、ベット・ミドラー、チャカ・カーン等、海外のアーティストのカヴァーを積極的に取り上げ、歌手としての表現の幅を広げる。さらに中期以降はアルバムごとに自作曲を発表するようになる。
海外のアーティストのカヴァーはとても難しいですよね。そんな中で積極的に取り上げるとはさすがですね。デビュー当時の「緊張が解けなくて笑うことができなかった」と語っていたことを思うとアーティストとして成長されたのでしょうね。
winkからソロへ。そして活動休止
1995年3月、ソロ・プロジェクトに着手する。そして、ソロ活動とのけじめをつけるため、1996年3月をもってWinkとしての活動を停止する。winkの人気が落ちて社長から「華のあるうちに今ここで解散しよう」と突然告げられた時、相田さんと鈴木さんは「嫌です」と反対したそう。しかし「それぞれの個性を磨いてこい」という社長からの激励の言葉もあり解散を決意したそうです。
とても残念ですね。相田さんは1人での芸能活動は無理だと感じて、芸能界から引退するつもりでいたとのことです。その後2年間休業しその間ソロとしての楽曲制作に励んでいたそうです。
再始動
2年間の休業後、テレビに出なかったこともあり、世間からは過去の人として見られていたそう。そうした中で、管理人から「随分落ちぶれたね」というきつい言葉をかけられたとのこと。この管理人の言葉が相田さんの負けず嫌い魂に火をつける事に。その後事務所に直談判に向かい本格的にタレント活動を再開させ今に至ります。
2000年7月に日本テレビ系「踊る!さんま御殿!!」にゲスト出演し、天然ボケといわれる独特のキャラクターで注目されるようになる。
「ボクらの時代」(フジテレビ系)で島崎和歌子(46)が、「いい年の取り方したい。若作りしすぎたりしていたら言ってね。たまにイタい感じの人がいるから」と言うと、相田さんは「美魔女っていう言葉イヤで、イタくはなりたくない」「別に、劣化上等みたいな」と発言。これにはネットで「なにげに本質ついてる」「超カッケーw」などと大盛り上がり。
この言葉はネットでも数多く取り上げられていましたよね。本当にかっこいいです。

結婚そして母へ
相田翔子さんは2008年、38歳の時に相澤宏光さんという医師とご結婚されました。相沢さんのお父様は元政治家でお母様はなんと女優の司葉子さんです。

テレビのバラエティー番組に出演していた相田翔子を見て、「あの話し方が嫌だわ」と、姑の司葉子さんが関係者に話していたという話も聞きます。
嫁姑関係はあまりよくないのでしょうか?芸能界の大先輩である司さんですから頭が上がらないのでしょうね
2012年1月13日第一子となる女児を出産した。予定日より約2ヵ月早く1866gの体重だった。ようやく誕生した娘の名前をたくさん考えていたそうですが、全て旦那さんや姑の司葉子さんに却下され、結局、司さんが考えた名前に決まったのだとか。
2ヶ月も早い早産だったのですね。相田さんも出産後はご心配になられたことでしょう。現在はすくすくと元気に育っているということでよかったですね。

しかし、待望の我が子の名前を姑さんが決めてしまうとは辛いですね。お家柄なんでしょうか?
相田翔子は料理上手?
相田翔子さんはご自身のブログに今日の料理と度々ブログにアップされています。そして料理のサイトでは「相田翔子さんが作っていた料理」と紹介されていたり、かなりの腕前のようですね。
今回は相田翔子さんについてまとめてみました。Wink時代の頃のこと、旦那さんや姑さん、お子さんのこといろいろ苦労はあるかと思いますが、テレビで拝見している限りでは幸せそうなのでよかったです。これからの活躍も期待したいです。
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